昨年は、
似た表題の記事を6月15日にアップしています。
昨年話し込んだ方にも再会しましたが、退職年金生活者としては何度も同様の品を購入するわけにもいきませんから、お邪魔しない程度に声をかける程度でにとどめて失礼ました。
今年は、販売価格が高騰していました。
昨年6000円強で購入した商品と同等の作品が10000円を越えていました。
数十万円の高価な展示物もありました。
聞きますと、この間のデフレ脱却と円安で材料費が高騰しているそうです。
作る人の立場になるとその価格は了解できるのですが、購入する立場からはとても支払えない価格なのです。
こんな状態が続くと、「職人の技」が消えていくのではないかと心配になります。
そんな気分で歩いていると、木製の万年筆や鉛筆補助軸のコーナーを見かけました。
今までお会いした中で、最も細い製品を作られる木工轆轤さんです。
ウェブで検索するとサイトをお持ちのようですので、そちらのURLをリンク付きで貼っておきます。
https://www.pen-house.net/brand/brand0228.html
価格も、轆轤で手作りしたものとしては、かなりリーズナブル。
10年前ならとびついたことでしょう。
今、私は、コンピュータやタブレットに頼っています。
どうしても手書きが必要な時は、筆ペンなのです。
そして、もっと惜しいことに、私が求めているコンテ鉛筆の補助軸は作っていらっしゃらなかったのです。
鉛筆は、私の測定では約7.2ミリですが、あるサイトによりますと8ミリ以下だそうです。
http://www.pencil.or.jp/index.html
http://www.pencil.or.jp/pencils_jis/jis_6.html
そして、私がほしいコンテや木炭を芯にした鉛筆は、私の測定では約8.2ミリなのです。
閑話休題。
轆轤の話しているうちに、私のブログをお知らせしても良いという話になりました。
この機に轆轤に関する記事の整理をしても良いかなと考えました。
というわけで、以下は、轆轤に関するリンク集です。
こんなことを私が調べ始めたきっかけは、マトリョーシカでした。
私は、様々なマトリョーシカの産地を見てきたのですが、最も印象深かったのはポールホフスキー・マイダンでした。
というわけで、まずポールホフスキー・マイダンに関する記事にリンクを貼ります。
http://youkaimamoru.blog.jp/archives/40203021.html
ポールホフスキー・マイダンは、轆轤の里ですが、元マトリョーシカ博物館長(故)サラヴョーヴァは、キリスト教を禁じたソ連当局が見逃すほどの僻地だと書いています。
人口2000人程度の村ですが、ほとんどの住人がマトリョーシカをヂ希有芯とする轆轤細工に関係しているという村です。
訪問記録は、上の記事の前後にいくつか書きました。
訪問決算のページにもリンクを貼っておきます。
http://youkaimamoru.blog.jp/archives/40195204.html
マトリョーシカは、1890年頃、(早くても1898年)にモスクワで誕生しました。
最初のマトリョーシカが作られた跡地には、最近までマトリョーシカ博物館がありました。
(URLを示してリンクを貼ってきましたが、ここからは文中の単語にリンクを貼ります。)
ここで最初のマトリョーシカが作られたとき、日本の七福神がモデルになったという説があります。
この時にモデルになったという箱根入れ子七福神は、2体失われ5体の状態で、セルギエフパサードの玩具博物館に展示されています。
マトリョーシカは、モスクワで誕生したのですが、ここは見本工房。1900年パリ万博で銅メダルを受賞し注文が殺到するようになると、モスクワ北方約70㎞にあるセルギエフ・パサードがマトリョーシカ生産を担うようになりました。
しかし、最近ここの工場の轆轤細工は、旅客に作る過程を見せる程度に縮小しているように感じられます。
順番から言うと、セルギエフ・パサードで大量生産されるようになった後、マトリョーシカは、モスクワから数百㎞東にあるニジニノブゴロド州で作られるようになりました。
ニジニノブゴロド州中心ニジニノブゴロド市北方約100㎞にセミョーノフという伝統的な木工の街があります。
さらに20㎞ほど北へ行きますとメリノヴォという村があって、1922年にマイヨーロフという木工轆轤職人がセルギエフ・パサードのマトリョーシカを持ち帰ったと言い伝えられています。
セミョーノフに戻ります。
ホホロマ(ホフロマ)というラッカーウェアが有名なのですが、ここでマトリョーシカを大量生産しています。
正確な年代はわからないのですが、多分1940年頃、マトリョーシカは、ニジニノブゴロド州の南方にあるポールホフスキー・マイダンでも作られるようになりました。
その後、更に北東にあるキーロフ州でもマトリョーシカが大量生産されるようになりました。
さらに北東、ノヴォシビルスクの近く、ムヴォクズネツクにも工場があるという話なのですが、ここは、まだ訪問できていません。
さて、日本側の事情です。
マトリョーシカのモデルになったと言われている箱根入れ子七福神は、現代にも引き継がれています。残念なことに後継者がいないので、多分、最後の作家ということになるのでしょう。
また、マトリョーシカそのものは特許があるわけではないので、木工轆轤があれば誰でも作れるでしょう。ただ、職人の法則で述べたように、小規模に個人で作れば、とてもじゃないが今売られているような安価な価格で売ることはできないと思います。
こけしの産地鳴子でも入れ子七福神を見かけましたが売り物ではありませんでした。
鳴子では、轆轤の歴史に関する画像を入手できました。
轆轤細工は、発祥の地があります。
あきらかにそれ以前に作られた作品が発掘されているのですが、精神的にはこの地が発祥の地なのだそうです。
轆轤は主に碗を作ったようです。
この碗がどのようにマトリョーシカになるかというのが、このページ最後の問題です。
まずは、修行僧用、入れ子携帯食器、応量器です。
江戸時代、農民が豊かになり、温泉旅行が流行ります。
温泉側では、土産物が作られます。
こうして、天保年間(1844年頃)信濃屋亀吉という人が、応量器を発展させてというか遊び心というか、入れ子12卵を作りました。
これが入れ子七福神に発展し、モスクワにもたらされてマトリョーシカ誕生時のモデルになったと言われています。
尤も、リンクを貼ってきた私のページでも触れていますが、ロシアも日本も轆轤細工で入れ子卵やりんご型の器のような物を作っています。入れ子七福神やマトリョーシカが伝播したものか、それぞれが似た者を作ったのか、厳密にはわかりません。
長くなったので、ここではこれ以上深入りしません。
この程度にしておきます。
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